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1929年(昭和4年) 旧満州遼陽生まれ。7歳でクラシックピアノを習い始める。
1946年(昭和21年)7月 家族一同満州から引き揚げ、両親の故郷、大分に移住。
                     10月 別府市の「ツルミ・ダンス・ホール」でプロとして仕事を始める。
1947年(22年) 福岡に進出、山田龍太郎バンドに認められて入る。
1948年(23年) 山田氏の勧めで東京に進出。生駒徳二バンド、森亭バンド、東京ジャイブ、ブルーコーツオーケストラ、一番オクテット、
                   ゲイスターズ、シックスレモンズなどを経て
1951年(26年) 自己のグループ「コージーカルテット」を結成。自己のスタイルを築き始める。また作編曲も始めNHK、
                   ラジオ東京(原、東京放送)などの番組に定期的に出演、様々なジャズ・オーケストレーションを試み、
                   この当時では珍しくフレンチ・ホルンをジャズに用いた。
1953年(28年) 来日中のオスカー・ピーターソンに認められて、各プロデューサー、ノーマン・グランツのノーグラン・レーベルに
                   初レコーディング。
1956年(31年) 1月 ボストンに渡米、バークレー音楽院に入学。
                   3月 自己のカルテット(ブーツ・ムッセリ、ビル・ルッソ、レス・ハリス)でボストンのジャズ・クラブ「ストーリービル」に毎週出演。
                   7月 ニューポート・ジャズ・フェスティバルに日本人として初めて出演。
                   その後、定期的に自己のグループでアメリカ国内のフェスティバル、
                   また、学業の合間をさいてクラブに出演、レコーディングも続ける。
1958年(33年) 日本人ジャズ・プレーヤーとして初めて、ASCAP(AMERICAN SOCIETY OF COMPOSERS AND PUBLISHERS)のメンバーに
                   加わる。「マドモアゼル」誌からアメリカにおける「ベスト10女性」の一人に選ばれる。
1959年(34年) バークレー音楽院大学を卒業。ニューヨークに移りチャーリー・マリアーノと双頭カルテットを結成。
                   後にマリアーノと結婚、演奏活動を続ける。
1961年(36年) 渡米以来、初めてカルテットを率いて帰国公演。
                   また、渡米が困難だった当時、渡辺貞夫を日本人プレーヤー第2号としてバークレー音楽院に送るべく尽力した。
1963年、1964年(38,39年) 帰国、日本に滞在して演奏活動を続けながら後進を指導した。
                   長女満ちるを出産。
1964年(39年) 東京オリンピック参加作品として、ビッグ・バンドの為に日本民族舞踊の動きを用いたユニークな作品を発表。
                   この時以来、秋吉はアメリカ文化のジャズ音楽と、日本の伝統文化との接点を探求し始める。
1965年(40年) 再渡米し、自己のグループで演奏活動を開始。マリアーノと離婚、一女を抱えながらジャズ活動を続ける。
1966年(41年) チャーリー・ミンガスに迎えられ、彼のグループにサイド・マンとして参加するが、10か月後に再び自己のグループを結成する。
                   スタン・ケントン・クリニックの要請で、スタッフとして参加、4年間に渡り、毎年大学のジャズ・クリニックでピアノを教える。
1967年(42年) ニューヨーク、タウン・ホールで初のソロ・コンサートを行う。
                   ニューヨーク・タイムズ紙の批評家ジョン・ウィルソン氏に絶賛される。
                   このコンサートの為に書き下ろした「すみ絵」は日本の雅楽を取り入れたユニークな作品で、彼女の代表作となった。
1969年(44年) ジャム・セッションで知り合ったルー・タバキン(テナー・サックス&フルート)と再婚。
1970年(45年) 大阪万博に招待され、カルテットを率いて帰国。
1972年(47年) タバキンの仕事の都合でロサンジェルスに移住。
1973年(48年) タバキンの助言を得て自身でビッグバンドを結成し、長年の念願であったジャズ・オーケストラの作曲に
                   本格的に取り組み始める。
1974年(49年) 最初のオーケストラ・アルバム「孤軍」を日本で発売。
                   小野田少尉に捧げた曲「孤軍」は、能の鼓を取り入れたまったく新しいジャズ作品として大きな話題を呼ぶ。
                   独特の和声編曲法は多くの若いアメリカ人ジャズ作曲家にも影響を及ぼす。
1975年(50年) 黄色人種とアメリカ社会を考える「ロング・イエロー・ロード」、また江戸時代をテーマにした「花魁譚」などの
                   作品を発表。
1977年(52年) 水銀事件の水俣事件を取り上げた問題作「MINAMATA」を発表。日本ではジャズディスク大賞の金賞を受賞、
                   アメリカでは最も権威ある「ダウンビート」誌でベスト・アルバムに選ばれる。
                   同年、ビッグ・バンド、作曲編曲、作曲の3部門を制し、同誌では前代未聞の三冠王となる。
1978年~1985年(53年~60年)秋吉はアメリカ・ジャズ界№1ビッグ・バンドの地位を持ち続け、その後も常にトップ3の座を守っている。
                   また、定期的に日本、アメリカ、ヨーロッパ、カナダ、ブラジルなどで演奏活動を行い続け、ワルシャワやベルリンのジャズ・
                   フェスティバルでは、問題作「MINAMATA」を演奏して注目されるなど、日本のよき文化大使として活躍。
                   その他、日本をテーマにしたシンポジウムにも度々招かれ、オクラホマ大学では、日本文学の第一人者ドナルド・キーン博士が
                   日本文学について語ったのに対し、秋吉はジャズの講義を行った。
1986年(61年) 「自由の女神100年祭」に際し、ニューヨーク市長(コッチ)が高い功績のあった外国生まれの
                   女性ニューヨーカー100人に贈った「リバティ賞」を、日本人でただ一人受賞。
                   これを記念し、受賞の喜びをジャズ音楽に託して「リバティ組曲」を発表する。
1988年(63年) アフリカ・ナイジェリアから5人のジャズ音楽家に贈られた「ルーツ賞」を受賞(アメリカ人3人、ドイツ人1人、日本人秋吉)
                   9月ワシントンDCで開かれた「ブラック・コーカス会議」にスピーカーとして招かれ、経済的プレッシャーによる
                   ジャズオーケストラの経営困難と、それによって生じているデブロップメントの危機について語り、注目を浴びる。
1989年(平成元年) 福岡市ヨカトピア開催に際し、同市で発掘された大和朝廷の迎賓館「鴻臚館」をテーマにした「鴻臚館組曲」を
                   市長の要請で作曲、オーケストラを率いて帰国し、福岡市のヨカトピアで7月23日に初演。
                   10月ヨーロッパの大日本祭「ユーロパリア 89」(開催国ベルギー)に自己のオーケストラを率いて出演。
                   なお、過去7年間にオスロ・ラジオ・オーケストラ、フランス・ジャズ・オールスター・オーケストラ、イタリア・シチリア・
                   ジャズ・バンド、コンツベルグ・ラジオ・オーケストラ、シドニー・オールスター・ジャズ・オーケストラの指導に招かれている。
1990年    ビッグ・バンド活動のかたわら、ピアニストとしてのアルバム制作も再び始める。
1991年8月  横浜市より委嘱作「チルドレン・オブ・ザ・ユニバース」を「国際平和宣言都市会議」で初演。
         9月  ニューヨーク、カーネギー・ホールでアメリカ滞在35周年記念コンサートを開く。
1994年    青森県森田村より委嘱「組曲:フォー・シーズンズ(森田村の四季)」を初演。
1996年    浜松ジャズ・フェスティバルで音楽生活50周年記念コンサートを開く。
1997年    紫綬褒章受章。
1999年1月  「国際ジャズ名声の殿堂(Interbational Jazz Hall of Fame)」入り。
         10月  デューク・エリントン生誕百年を記念してモンタレー・ジャズ・フェスティバルより委嘱された新作初演。
2000年    第16回東京都文化賞。
2001年8月6日 広島の住職、中川元氏より委嘱を受けた「ヒロシマ - そして終焉から」初演、帰米後起きた同時多発テロに衝撃を受け、
                   その第4楽章「ホープ」を世界から争いがなくなるまで演奏し続ける決意をする。
2003年1月   ニューヨーク・リンカーン・センターよりの委嘱「ドラミング」を、和太鼓林英哲をゲストにアリス・タリー・ホールで初演。
                   30年続けたビッグ・バンド(ジャズ・オーケストラ)活動を終えることを宣言、10月にニューヨーク、カーネギー・ホールで
                   解散コンサートを行う。以降、ピアニストとしての活動に専念する。
2004年     NHK番組「人間講座」8回シリーズに出演。8月ニューポート・ジャズ・フェスティバル50周年コンサート出演。
2005年     2004年度朝日章授賞。
2006年     ジャズ・マスター賞受賞。
2008年     大分市よりの委嘱を受けて、大分国体開会式の記念曲を作曲、天皇皇后両陛下ご臨席の下、初演。

〜秋吉敏子 受賞歴〜

  • 1958年 マドモアゼル賞
  • 1975年 第1回南里賞「スイングジャーナル」誌
                 ディスク大賞・銀賞「スイングジャーナル」誌
  • 1976年 ベスト・ジャズ・バンド・レコード「レコードレビュー」誌
                 ジャズ教育者全米協会賞(NAJE)
  • 1976~86年 グラミー賞ビッグバンド部門にノミネート9回
  • 1977年 ディスク大賞・金賞「スイングジャーナル」誌
  • 1979,80,81,82,83,84年 ベストバンド「ダウンビート」誌(米国)
  • 1980年 ビッグバンド世界一「ジャズフォーラム」(ポーランド)
  • 1980,81,82,86,89年 ベスト作曲・編曲家「ダウンビート」誌(米国)
  • 1981年 ディスク大賞・銀賞「スイングジャーナル」誌
  • 1981年 ニューヨーク・ジャズ賞編曲者部門
                 ビッグバンド世界一「ジャズフォーラム」(ポーランド)
  • 1981,82,84年 グラミー賞編曲者部門にノミネート3回
  • 1986年 ニューヨーク、リバティ賞
  • 1987年 ニューヨーク日系アメリカンソサエティアジア・アメリカン・ビジネス・ウーマン賞
                 LAウーマン・ウォリアー賞
  • 1988年 ナイジェリア・ジャズ協会ルーツ賞ビッグ・バンド・リーダー世界一
                 ジャズ教育者全米協会賞(NAJE)
  • 1989年 マサチューセッツ大学デューク・エリントン賞
                 ASCAPポピュラー賞
  • 1995年 チグサ賞(初受賞者)
  • 1997年 日本音楽ペンクラブ賞
                 AVON女性文化センター芸術大賞
                 紫綬褒章
  • 1998年 バークリー音楽院名誉博士号授与
  • 1999年 横浜市文化賞
                 ジャズ殿堂入り
  • 2000年 ラトガース大学ジャズ研究所ニュージャージージャズ協会殿堂入り
                 東京都知事文化賞
                 日本音楽ペンクラブ賞
  • 2002年 NY日本商工会議所栄誉賞
  • 2004年 日本音楽ペンクラブ賞
  • 2005年 第47回日本レコード大賞特別賞
                 日本文化交流基金賞
  • 2006年 旭日章授賞
  • 2007年 全米ジャズマスターズ賞


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